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歴史修正主義に向き合う部落問題研究 〜J.マーク・ラムザイヤー論文をめぐって〜

更新日:2021年10月6日


阿久澤 麻理子

大阪市立大学人権問題研究センター/都市経営研究科 教授


ハーバード・ロースクールの教授、J.マーク・ラムザイヤーの「慰安婦」に関する論文「太平洋戦争における性契約」が2020年末、ある学会誌の電子版に公開され、新聞報道されると、世界中で批判の声があがった。著者は「慰安婦は強制ではなく、自由な意思決定の主体として売春宿業者と契約を結び、戦地で儲けた」と主張するが、裏付けとなる史料を示さず、「証言」を歪曲したり、文脈を無視した資料の引用を行うなど、論文には多くの問題があり、掲載誌に多くの抗議が寄せられた。2021年2月、掲載誌は論文に対する「憂慮の表明」を公表し、3月にはハーバード大学ライシャワー日本研究所も「教授による最近の出版物は、その学問的根拠に対して、ハーバード大学の日本研究者の間でも深刻な懸念が表明されている」と声明を出した。


ラムザイヤーはこれまで、原発、部落、在日コリアン、沖縄についても「問題論文」を書いている。共通するのは、人権侵害の被害者がその解決を求めることを「私利私欲によるゆすり」とか「差別を利用し補助金を引き出した」と非難し、差別を受けるマイノリティの側に問題がある、という主張である。


部落問題に関する論文3本は、まずディスカッションペーパーとしてネットで公表され、うち2本が後に学会誌に投稿され掲載に至った(下表参照)。中でも長大な「でっち上げのアイデンティティポリティクス」(②)は95ページもの紙幅を割き、次のように主張する。





「部落民」アイデンティティは架空である。貧農がマルクス主義に傾倒してボルシェビキを自称し、「皮革ギルド=部落民」という架空のアイデンティティをでっちあげた。水平社はそれを利用し、偏見に対して暴力的糾弾を行い、多額の金銭を要求する「ゆすりの策略」を編み出した。それは戦後の部落解放運動に引き継がれ、引き出された巨額の補助金が暴力団に渡った。補助金がインセンティブとなり、機会に恵まれない若者は部落に留まり、学校を中退し、犯罪シンジケートに加わったが、合法的仕事に就けるよう自己投資ができた者は部落を去った。特措法が失効し補助金が廃止されると、部落の若者は学業を継続し、高校を卒業し、大学進学のために部落を去り、二度と戻らなかった。


同和対策事業が法に基づくことも、各地の運動や同和教育の実践や成果も一切無視したありえない内容である。だが、これほどひどい内容でも、論文の撤回を求めるには、ファクトチェックを行い、誤りや研究方法上の問題を指摘することによって、学術論文の基準を満たしていないことを証明する必要がある。研究は「学問の自由」に守られるから、反論も「不当な干渉」になってはならないのだ。実際、本年3月22日、参院文教委員会の場で、ラムザイヤーの「慰安婦」論文について質問があると、文科大臣は「研究者が外部から干渉されることなく、自発的かつ自由に研究活動を行い、その成果を自由に発表することは尊重されるべきと考えています」と回答したi。


だが、「学問の自由」には、うそをついたり、ごまかしを行う自由はない。研究者はacademic integrity(学問的誠意)に基づき、説明責任を果たせる方法で、誠実に研究するからこそ、成果は社会から信頼される。それゆえ、もし研究者仲間の論文に誤りや歪曲があれば、それを指摘するのも研究者の責務である。さもなければ、研究そのものへの社会の信頼が揺らぎ、「学問の自由」の基盤も脅かされかねないからだ。

部落問題に関する論文も、研究者の検証と反論が始まった。2021年5月、学会誌Asia Pacific Journal(Japan Focus)が特集を組み、国内外の研究者の反論がオンラインで自由に読める。ご参照いただきたい(本文は英語だが、一部日本語訳あり)ii。


***


ところで、ラムザイヤーは日本語が堪能だが(日本で生まれ育ち、日本の法、政治、経済の専門家)、部落問題に関する論文には、日本語の先行研究のレビューがない。本人はその理由を「運動団体から知的独立」した部落問題研究者が日本にはいないからだと述べ、代わりに各種「一次資料」の直接引用や、既存の統計を独自に再集計している。

だが、史料の前後の文脈を無視し、持論に合わせて「部分的」引用を行ったり、原典にはない「言葉」を加えたりしていることを、ライターの角岡伸彦が、原典と比較しながら詳細にチェックし、自身のブログで指摘しているiii。


また、統計的手法も問題がある。ラムザイヤーは、都道府県単位の「部落民PC (%)」という変数を作り(「同和関係人口」÷総人口)、1993年の「部落民PC」と、その他の指標─例えば、都道府県単位での、一人当たりの犯罪件数(2010)、一人当たりの覚せい剤関連犯罪件数(2011)、生活保護率(2010)等々─との間に、有意な相関が見られるから、部落民の割合の高さが、機能不全の行動と関係していると述べている。だが、1993年の各都道府県の同和関係人口割合は、0%から0.289 %にすぎず、そのような「部落民PC」と、他の(しかも20年近くも後の)データの相関を見て、正確に何かを指摘できるだろうか?

また、1907年の「部落民PC」が、「犯罪PC」(犯罪数÷人口)、「殺人PC」(殺人件数÷人口)と関係するから、「部落民の割合が高くなれば、一般的に犯罪の割合、殺人の割合が高くなる」と言う。だが、部落と部落外の犯罪や殺人の件数を区分もせずに相関を出したことは、誠実な実証と言えようか。独善的方法で、部落に対する否定的イメージを作り出したとの批判は避けられまい。


データ使用の「倫理問題」もある。論文①②とも、鳥取ループがネットにアップした「全国部落調査」を使っている。これは戦前の調査報告書(1936)で、全国5300を超える部落の所在地や名称、戸数、人口、職業、生活程度が記載され、後に身元調査で悪用された(「部落地名総鑑」の原本と言われる)。それゆえ2015年にデータがネットにアップされると、翌年の4月、裁判所は仮処分による削除命令を出した(確定は抗告が棄却された2018年1月)。裁判所の削除命令後に、そのデータを使った論文が学会誌に掲載されたことになる。しかもラムザイヤーは「全国部落調査は 2015 年後半に入手した。鳥取ループを名乗る宮部龍彦が、この文書を自身のインターネットサイトに短期間だけ投稿していた」「データは短期間、見ることができた」と書いているから、削除に気づいていた。②を掲載した学会誌に、「編集委員会は、日本の裁判所が削除命令を出したデータを著者が使用していると知っていたか」、「著者はそれを知らせたか」と質問したが、返答はない。


**


「部落民アイデンティティは架空」という主張も、注意が必要である。特措法が失効し、20年近くが経過したこの時期に、アイデンティティを無意味化しようとする企てが起きている。部落にルーツがあっても、そのことを教えられたり、知る機会のない若者は少なくない。世代交代が進み、過去の差別の記憶や、解放運動にコミットした経験を持つ年配者が少なくなることは、歴史的事実を捻じ曲げ、転覆を企てる修正主義者の攻撃を受けやすい、ということである。こうした課題に向き合わねばならない時代を迎えている。



i 山口智美「ハーバード大教授の「慰安婦」論文が、世界中で「大批判」を浴びている理由」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82049

ii https://apjjf.org/2021/9/ToC.html

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